Essay 74 たかが住宅されど住宅

建築の勉強をしようと学校に通い始めると、まず最初に与えられる課題は、大抵の場合「住宅」だと思います。これは大学や専門学校と言った学校の違いによって、多少の差は有るとは思いますが、まぁ、大抵の場合「住宅」が最初の課題になると思います。それだけ「親しみやすさ・馴染み深さ」から来る物なのだと言うことなのでしょうね。


一般社会で、施主の方が「家を建てよう」と決めた時にでも、まず自分で方眼紙に家の間取り図を書いてみたりするでしょう?何の勉強もされていない方でも、「ひょっとしたら住宅程度なら、自分で設計できるかも?」と感じさせてしまうのが、住宅への馴染みや、気楽さなのだろうと思います。


良く言えば、取っ付き易いし簡単に思えるのでしょう。でも、悪く言うと「住宅」を舐めてませんか?
確かに学校では、住宅と言う課題から勉強し始めることは事実ですが、こうも言われるのです。
「建築は住宅に始まり、住宅に終わる」。あるいは「住宅がキチンと設計できる奴は、何を設計してもキチンと出来るが、住宅が設計出来ない奴は、何をやっても碌な物は作らん!」とね。すくなくても、私はそう教えられました。


「料理の世界は、卵料理に始まり卵料理に終わる」と言うのに、似ているような気がしませんか?


私も料理はしますから、ゆで卵だって、目玉焼きだって、厚焼き玉子だって作れちゃいます。(ただし、コレを料理と言ったら怒られるかも知れませんが・・・笑)でも、料亭で出すような厚焼き玉子を作ることは出来ません。


「住宅」も実はそれだけ、奥が深いと言うことなのではないかと思っています。


人って順応性が高い生き物だから、ただの四角い箱でも「今日から、コレが貴方の家ですよ」と言われて与えられれば、その中で生きていくことが出来ると思うのです。ところが、日を重ねるに連れて「使いにくい・狭い・煩い・暗い」などと、主観的な感想が生まれてくるのでしょう。100人を同じ環境に閉じ込めたら、100通りの感想が生まれる筈です。だからこそ、その100通りの人にあった家を作ることが必要なのだと思います。


例えば税金を100億円使い建てた図書館が、どんなに使いにくくても、そのことに対しての批判やクレームは一過性のものではないですか?でも、2000万円かけて建てた「私の家の使い難さ」に関しては、一生続く話なのです。


「たかが住宅です。・・・されど住宅なんです。」
このことを一番身を持って感じなければならないのは、誰あろう私たち「造る側」なのだと思います。そして我々造る側の人間に、そんな考え方を育てさせるのは、「住む側」なのだと思います。


ですから住む方は、「何でも良い。住めりゃあ良い」と、造る側の人間を甘やかすような判断をしないで下さい。造る側の人は・・・、企業は、直ぐに楽なほうに流れて行ってしまいますから・・・・・。


昔、寄席では「客が芸人を育てていた」と言われます。面白くもない話に、義理で笑ったりはしなかったばかりか、足を向けて寝るような態度まで取ったそうです。「チクショウ!次は必ず、あの客を笑わせてやる!」と発奮した芸人が、技に磨きをかけ精進したのです。


造る側の我々は、少しでも良い物が造れるように努力しましょう。ですから、作らせる側の施主も「何でもいいから」と言わずに努力してください。少しでも良い物を作らせるように。


「たかが住宅です・・・・・。されど掛け替えなの無い、貴方の住宅なのですから・・・」

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