Essay 121 最小限住宅を考える

いつの時代においても「建築家」が抱える問題の一つに「最小限住宅」と言う物が有ると思う。
古くはコルビジェが拘った2.26mの立方体空間から始まり、日本では東氏の「塔の家」、最近では難波氏の「一連の箱の家シリーズ」もある意味ではそうではないかと思っている。


なぜか建築家は「人が生きて行くための最小限の家」を追求し続ける。時代や素材あるいは住み手のニーズが変わり続けるにも係わらず、どれだけの空間が有れば生きていけるのかを模索する。それがどんなに大変で、果てしない努力が必要な作業であるにも係わらず。


残念ながら今の私に「最小限住宅」を考える時間は無いのですが、私なりに、こんなふうには考えています。それは「家の狭さと家族の優しさは比例するのでは無いか?」と言う事。これ建築家先生が追求する「最小限住宅」の追求理由とは違うのですが、広さと言う繋がりで書いてみます。また、非常にシンプルに書いているので誤解を受けるかもしれませんねぇ。


まあ簡単に言えば、狭い家に肩を寄せ合い暮らす方が、家族は優しく慣れるのではないかと言うことなんですが、あまり単純な言葉で説明してしまうのも角が立つのかもしれません。

例えば狭い家に暮らせば喧嘩が絶えないかもしれないし、荷物も収納出来なくて困るかもしれない。家族が増えれば寝る場所にさえ困るかもしれない。そう言う反論が有ろうことは重々承知の上での意見です。それでも「狭い家の方が家族は優しくなれる」と信じているんですよね。


なぜなら喧嘩が絶えないと言う事は、お互いに腹に貯めていないと言う事だろう。無視して黙り込むのではなく話し合うしかない。自分の部屋に逃げ込んで不貞寝を決め込むわけにも行かない。なぜなら狭くて、そんな場所さえ無いかもしれないから。


荷物が仕舞いきれないのなら捨てれば良い。家の中を見回せば、無くても困らない物ばかりが埋め尽くしている有様。そんな物に押し潰されながら我慢する事が「生きる」ことなら、くだらない物など捨てれば良い。


どんなに狭くても、寝る場所が無くて困るなんて事が有る筈が無い。そう言う事は本当に寝る場所に困った事が無い人の言う台詞で、寝る場所なんかナントでもなるものだと思っています。


列車の狭い寝台車の中でさえ、3段ベッドが備え付けられている。人間、本当にそこしか無ければ文句など言わずに黙って寝る。


その結果、何をするのも一緒になる。絶えず家族に対して話し掛けざるを得ないでしょ?そして触れ合う。そんな場所で肩を寄せ合い続けたとすれば、きっと誰か一人が欠けても、とても空間を感じてしまうに違いありません。物足りなさや、寂しささえ感じるかもしれない。(ここで書いた「空間」を“くうかん”と読んではいけない。“あきま”と書いているのだから・^^)


世の中、物と見栄と我侭と憎悪と妬みと嫉妬と偏見と苦渋とEtcetc・・・に満ちています。それもこれも
「人間の本質的な欲求」とは違うものを求め過ぎなのではないでしょうか?人の三大欲求は食欲・性欲・睡眠欲だけです。物欲なんて物に縛られ過ぎているから歪んだ苦しみを伴う。


家を建てる時に、物欲から「家の形」を考えるのは止めて「三大欲求」だけを大切に考えたら、家の本質が見えてくるのかもしれないと思います。ひょっとすると、そう言う考え方をする人を、世間は変人と呼ぶかもしれないが、私は一度で良いから、そんな方とお会いしたいと思います。


できれば酒でも飲みながら「あれも要らない!こんな物は不要だ!」と、ドンドン切り捨てて最小限住宅の話がしたい。最終的にはトイレのドアさえ要らないなんて言う事になったら、非常に愉快だろうと思う。


そんな家の話なら、きっと苦しくも達成感がある仕事になるだろう。これも一つのやりたい仕事なのかもしれませんね。
 

にほんブログ村 住まいブログ 住宅設計・住宅建築家へ

ブログランキングに参加しています。
宜しければ応援の一押しを、宜しくお願い致します。

コメントする

< Essay 120 人生を分けるGW  |   一覧へ戻る   |  Essay 122 横浜21世紀座に… >

最近の画像

お問い合わせ

  • お問い合わせフォーム
  • 0465-35-1464

このページのトップへ