Diary 2003年8月12日

世間的には、今日からお盆休みの会社が多いと思います。
そんな中で私の休みは・・・・・と言えば、全く無いのが実情。人様が休んでいる間に追い付きたいし、遅れを取り戻したいんです。つまり山積みに溜まった仕事を、人が遊んでいる間に、少しでも頑張りたいと思っている訳。

ですから、このお盆休みの間に「あれして!」とか「これして!」とか言われたくないのが本音。
だって今週に限って言えば、そんな事するために仕事してる訳じゃなくて、溜まっている仕事を片付けたいから休まないで頑張ろうと思ってる訳で、暇だから仕方なく仕事している訳じゃないんです!

そこんとこ分かって欲しいなぁ~・・・・・って、こう言うことを書くと「なぁ~んだ、仕事してるんジャン!」って電話かけてくる人が居るんだよねぇ~(笑) まぁ良いですけどね(^^;) 

今日から札幌です。私のストレスを思いっきり吹き飛ばしてくれーーー!(何が?)
■■■

今からちょうど18年前の1985年8月12日午後6時56分、群馬県多野郡上野村本谷御巣鷹山の尾根に、日航123便は墜落した。20世紀の飛行機事故としては最大の、死者520名を出す悲惨なものだった。

事故現場は山の尾根に辺り、直ぐには救助活動に移れず、ただ事故現場上空をグルグルと飛び回るヘリからの映像だけが虚しく流れていたのを覚えている。救助隊が現場に到着したのは確か事故発生から丸半日以上も過ぎた頃。
奇跡的にも四人の生存者があり、ロープでヘリに吊り上げられるシーンは、なんだかとってもドキドキしながら見ていた記憶がある。

だけど私にとって本当にショックを受けるのは、搭乗者名簿が発表された後のことだった。
歌手の坂本九氏の名前が有った事にも驚いたが、阪神球団社長の中埜氏の名前が有ったことに愕然とさせられた。

阪神はち、ょうどロード・ゲームに出ていた。所謂「死のロード」と呼ばれる長期ロードだったが、ロード当初から5連勝と勝ち続け、「今年こそは優勝や!」と気勢を上げ、いざ後楽園へ讀賣叩きに乗り込む、まさにその時の事だった。

そんな時期に球団社長が飛行機事故で亡くなるなんて有り得ない・・・・・

中埜社長の葬儀には吉田監督を始め全選手が参列し、冥福を祈ると共に優勝を誓っていた。後に知ることになるのだが、この時、ムッシュこと吉田監督が「球団社長の弔い合戦や!」と、誓い合っていたらしい。

でもそんな事を知らない私は、全てを悲観的に見ていた。「こんな事があったら今年はもう無理だな・・・」と。
それほど阪神と言うチームは弱かったし、毎年、いい加減嫌になるほど裏切られていた。少なくても私は、一度も優勝したシーンを見ていなかった。


案の定、中埜社長がお亡くなりになった後、阪神は連敗し始めた。6連敗と言う大型連敗で、私の中では「やっぱりダメか・・・」と言う思いがチラチラしていた。

だがチームは持ち直した!9月には神掛かっているとさえ言えるほど強かった!そして10月には、念願の吉田監督の胴上げシーンを見る事になる。生まれて始めて見る阪神の優勝シーンだった。


私の中では阪神の優勝シーン、つまり吉田監督の胴上げと、御巣鷹山の事故現場の映像は、どこかで繋がっているような気がする。一人、缶ビールを飲みながら、繰り返し流れる胴上げシーンや、道頓堀に飛び込むバカ騒ぎの向こうに、2ヶ月前の御巣鷹山の映像を重ね合わせて見ていた。中埜球団社長・・・見てますか?って。


あれから18年、今年も御巣鷹山のニュースが流れる。もう、そんなに経ったのか・・・と言う思いの裏には、あれから18年も優勝していないのかぁ・・・と言う意味も含まれている。そんな阪神がダントツでリーグを走りながらも、たった4連敗しただけで「あかんか・・・」と弱気な声も聞こえてくる。

まだまだや!見たくて見たくて、どーしても見たかった阪神の優勝を見ることが出来なかった中埜社長の命日に、凹んでる場合や無いやんか!がんばりや~阪神~!今日は私にとっては、そう言う日なのです。
 

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