Essay 4 設計という仕事

住宅の設計と言うと、建物の間取り図を書く事だと思っている人が多い。確かにそれも大切な作業だが、本当はほんの一部の作業でしかない。 私は設計と言う作業は、図面を書く事だとは思っていないのです。
 
今までに出会った多くの建築主の方は、必ずと言って良いほど「実は…」と言いながら、自分で書いた間取り図を広げて見せる。 少し恥ずかしそうに、しかし内心得意げに。それは決まって小学校の時に使っていた方眼紙のノートに何やら鉛筆で書いてある。こちらも、無下には出来ないので「イヤー、良いですね」等と心にも無いことを言ってしまって後から悔やむときもあるのだが…
 
しかし、書いてある間取り図はほとんど一緒!版で押すとはまさにあのことで10人中8人までもが同じと言って良いほど似ている。1階にLDK、その隣に和室の6畳と押入れに床の間。玄関脇に有る階段を上ると6畳程度の部屋が3室と、部屋の大きさに多少の違いはあっても殆どがこのパターン。これで良いなら10分で終わると心の中で思っても死んでも口には出さない。
 
そして、面倒な作業はここから始まる。人間も「鳥」と同じで初めに見たものを親と思うらしく、ねじり鉢巻で自分が書き上げたものが最高と信じる傾向がある。だから、こちらが提案するプランを理解してもらうまでの、話し合いにすごく手間がかかる。(ここが、設計の一つ目の大きな山場となる) こんな、説得作業みたいなことに時間を費やすのは無駄なのだが仕方が無い。
 
この、誰が書いても似た間取りになることを上手に仕事に利用しているのが住宅メーカーの家である。カタログには誰が住んでもあまり支障の無いような「可も無く不可も無く」といったプランがいくつか載っていて、建築の「け」の字も知らないような営業マンが「さあ、この中からどれを選びますか?」と薄ら笑いで聞いてくる。実に 上手いシステムだ。これなら無駄な材料も必要無いし、設計などと言う手間もかけずに済む。経費を節約しながら、利幅を増やせるシステムの典型だ。 でも、よ~く考えると「お前ら、所詮こんな程度だ」って言われているような気がしなくも無いのだが、誰も気がつかない。
 
だいたい、この国には「住むことに関して教える」と言う教育が無いのだから仕方が無いのかもしれない。例えば、義務教育の中で「因数分解」は教えても「落ちない棚」の作り方は教えない。「法隆寺の歴史」は教わっても、その美しさや素晴らしさは教わらない。つまり「家」のことなど何も知らないのに、有る日突然「家」を建てることになるのだ。
 
仕方が無いから、今まで「ボー」っとしか見ていなかった友達の家の間取りや実家の間取りを思い出したりする。それでも足らなければ本屋に走る。そして、一番写真が載っていそうな本を買い込んで、ねじり鉢巻で勉強を始めることになる。それでも、設計事務所の門をたたく人は懸命だと思う。(個人的には好きですよ。この人達は)
 
中には、建築家の描く設計図が大工さんの書く「番付」より、評価が低い人もいる。(そう言う人とは、話す時間も勿体無いので、とっととお帰りになって頂きたいのが本音)
 
始めに書いたように、私は設計と言う行為が図面を書く作業とは思ってない。大工さんが「建てることのプロ」ならば建築家は「想像することのプロ」だと考えているのです。図面を書く作業は、その伝達手段です。口で言って判ってくれるなら図面なんか書きませんよ。
 
家に住む家族の姿、長い長い時間の生活を想像する建築家。その表現手段の設計図を、建てることが専門の大工さんや住宅メーカーの、ちょこちょこと書いた物と、同じだと思う方がおかしい。また、それだけの自負と責任を持っていなければ、その家族が一世一代の大事業として取り組む「家」の設計など、おこがましくて出来るわけが無いでしょう。
 
建築家が設計すると言うことは、そう言うことなのですよ・・・。

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