人を救うと言うのは難しいことなのです


スピリチュアル・カウンセリングの火付け役とも言える江原氏だが、この記事には笑ってしまうと同時に、少し考えさせられてしまった。
 ↓
こんなの

私は、こう言う「精神世界」みたいなものが嫌いじゃないけど、「信じているか?」と聞かれたら、なんとも返事がしずらい。「あったら良いな~」とは思うけど、それに傾倒したり影響を受けたりはしないから。
だからTVで江原氏の番組を観る事も無いし、そのカウンセリングを、とやかく言うつもりも無い。ただ、その行為が人を救ってあげる為の行為なら、上手くやって欲しいなと思うだけ。

細木なんとかさんの占いもそうだけど、あれって全部、人を救ってあげると言う気持ちからスタートしたもの、あるいは行為だと信じている。もしそうだとしたら、苦しんで、救いを求める人に対して、「地獄に落ちる」なんて言っちゃダメだし、アドバイスをしてあげる事で、相談者を苦しめるような事を言ってはいけないと思う訳。

例えば、「貴方のご先祖供養が悪いから、家族に不幸が続くのです」なんて言われても、その人にはどうすることも出来ないからだ。なぜなら、「何処まで供養の行為を行えば、どの不幸が無くなるのか、あるいは防げるのか」と言う事は、全て未知の話で答えが無い。つまり何処までやっても、これでOKと言う範囲が無いのだ。もっと簡単に言うと、「ここまでやれば、先祖の供養はバッチリだ!」と言う定義を示して欲しい。そしてその行為を行う事で、防げた災いの内容を教えて欲しいと思う訳。でも、それって無理でしょ? だったらせめて、相談者が救われるような事を言ってあげて欲しいと思う訳。

でも大抵の場合は相談者を否定する。
「貴方の信心が足りない」とか、「供養が悪い」とか、「はるか昔に親を泣かしたのがダメ」とか。そんなこと、今言われても、どうしようもない。

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仕事柄、信心する気持ちは強い方だと思う。
例えば家を建てる前には、「地鎮祭」を行う。これは土地の神様に対して、「ここに家を建てますけど、宜しくお願いしますね」と言う挨拶をする行為だ。お札だって貼れば、沈め物だってする。

敷地の中に井戸があれば、井戸が息が出来るように、息抜きの配管を設けたりもする。造成中に大きな石が出てきたら、石にも神が宿ると考えることもある。それら全ては「物」、あるいは「人」に対して良かれと思ってのこと。だから間違っても「地鎮祭をやらないと地獄に落ちますよ!」なんて事は言わない。

人の心は弱い。
脆いし、何かを信じて、縋り付いて、生きていきたいもの。
そこんところ、大切にして貰えると良いな・・・・と、思う訳です。

コメント(2)

みけねこ (2008年1月24日 18:25)

探偵長様が、こういうことに全否定される方でなくて嬉しいです。
私も全く同じ意見で、相談することで救われている人が現実にいるのだから、カウンセラーを胡散臭いと言ってしまうと相談者までバカ呼ばわりされているようで、リアリストな人たちの言い様に悲しくなることもあります。確かに恫喝するのは良くないですが。
自分の目に視えなければ信じられない人たちが、江原さんのような存在を否定するのは簡単ですが、人を救いたいと思う気持ちまで笑ってほしくはありません。
誰かに、または何かに縋ったり信じたりすることが何故恥ずかしいような風潮になってしまったのか、もっとおおらかでも良いのではないのかな、と、あの地震でぐらぐらだった頃を多少なりとも救われた私は、哀しく思います。

探偵長 (2008年1月24日 18:41)

「藁にも縋る思い」を、否定したりはしませんよ。仕事で触れた人の中には、家相や風水、信心されている拝み屋さんの言葉と言ったものに縋っている方が、沢山居るからです。

人は何かに縋りつく事で不安を拭ったり、幸せを求めたりするものです。だから、その相談相手は、上手に救ってあげて欲しいと思う訳です。

だから場合によっては、恫喝するようなアドバイザーに腹が立つのです。だから、その手の番組に近寄らない。ある意味で、自己防衛ですね(笑)

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