建築士の仕事はどこから始まるのか?― 図面を描く前の「見えない時間」

先日、マンションのリフォームに関するご相談をいただきました。

現地を拝見しながら、オーナー様から現在のお住まいに対するご不満やご要望、ご予算などを伺いました。

壁を撤去して空間を広げるべきか。

どこに収納スペースを確保するか。

動線を整理することで暮らしやすくならないか。

扉のデザインを変えることで、暗くなりがちな場所へ光を導けないか。

そんな話をしながら、一緒に室内を見せていただきました。

その後、マンションの資料をお預かりし、現況図面の作成に着手しましたが、ご事情により計画は途中で中止となりました。

長くこの仕事をしていると、こうしたことは時折あります。ただ、今回の件で改めて考えさせられたことがありました。

それは、

「建築士の仕事は、一体どこから始まるのだろうか」 ということ。

そしてその問いは、設計者の立場だけでなく、依頼されるお客様の立場からも考えさせられるものでした。

多くの方は、「建築士の仕事=図面を描くこと」と、思われているかもしれません。

もちろん図面を描くことは大切な仕事ですが、実際には設計という仕事はもっと前から始まっています。

たとえば、現地へ向かう車中から既に考え始めています。

どんな建物なのだろう。

どんな暮らし方なのだろう。

どのような問題を抱えているのだろう。

そんなことを思い巡らせながら現地へ向かいます。

そして玄関を入り、ホールの明るさや空気感を感じ取ります。

家具の配置 収納の使われ方 窓から差し込む光 家族が歩く動線

そうしたものを見ながら、あるいは想像しながら、頭の中では常に考えています。

この家の不満はどこに隠れているのだろう。

なぜこの部屋は使われなくなったのだろう。

もっと心地よく暮らせる方法はないだろうか……と。

設計とは、図面を描く作業である以前に、問題を発見する作業なのかもしれません。

現地調査というと、スケール=巻尺を持って、寸法を測る作業を思い浮かべる方も多いでしょう。

もちろん寸法を測ることは大切ですが、建築士が見ているのは数字だけではありません。

その家で営まれている暮らしを見て、聞いて、嗅いで、空間全体から感じ取ろうとしています。

住まい手自身も気付いていない不便さ。

長年当たり前になってしまった使い方の癖。

家族ごとに異なる暮らし方。

そして、その家ならではの「らしさ」を。

そうしたものを読み解きながら、住まいの可能性を探っています。

だから建築士は現地を見たがるのです。

図面だけでは分からないものがあり、写真だけでは見えないものがあるからです。

建築士の仕事とは、図面を描く瞬間に始まるのではないと思っています。

問題を発見し、解決策を考え始めた時点で、既に設計は始まっています。

ところが、その仕事の始まりは他者から見ると非常に見えにくいものでもあります。

現地でお客様と話をしている姿は、時に雑談のようにも見えるでしょう。

しかし建築士の頭の中では、その会話の一つひとつが設計へと繋がっています。

そして、建築士にとっては設計の始まりであっても、お客様から見ればまだ相談の延長に感じられることもあります。

それはどちらが正しい、間違っているという話ではありません。

ただ、建築士が考える「設計の始まり」と、お客様が感じる「相談の始まり」には

時として小さなズレが生まれることがあるのです。

その認識の違いは、決して珍しいことではありません。

だからこそ設計者は、設計という仕事の価値や、その始まりについて

もっと丁寧に、お伝えしていかなければならないのだと思います。

建築士は建物を設計しているようでいて、実は暮らしを設計しているのです。

設計は図面を描く前から始まっているのです。

現地で交わされる何気ない会話の中で、建築士は住まいの課題を探し、暮らしの可能性を考え続けています。

そして、その見えない時間こそが、実は設計の最初の一歩なのだと考えています。


執筆者:安井 俊夫(天工舎一級建築士事務所 代表)

「自分たち家族は、この先どんなふうに生きていきたいのか」

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