Essay 170 潔さ

最近よく考える事に「潔く暮らす」と言う事が有ります。
例えば計画をしている時や、設計図を書いている時でも「潔さ」みたいな物を追求している・・・とまで言うと少しオーバーですが、そんな事を考えているのは確かです。


似たような言葉に「シンプル」と言うのも有りますが、私が考えている「潔さ」は、それほど高尚では有りませんし、クリエィティヴでもありません。じゃあどんな意味かと言うと・・・・・こう言う概念みたいな物を言葉で説明するのって難しいのですよね。


う・・・ん・・・、例えば、とても小さな土地があったとします。そこにとても小さな家を建てる事になったとしましょう。この時、この小さな家が素敵な家になるか否かは、家に求める要求の数に反比例するかもしれないと考えている訳です。(まだ理屈っぽいなぁ~)


つまり、あれもこれもと沢山の要求を詰め込もうとすると、小さな家はパンパンに膨らませた風船のようになってしまいます。それはとても危ういし、ゆとりも無いので、チョッとした事で直ぐに破裂してしまいかねません。だからそう言う家にならないように、「自分にとって何が大切なのかをキチンと見極める」と言う事が大切だと思うのです。


でも人って意外と我侭だし贅沢でしょ?しかも一生に一度の家となれば、あれもこれもと考えるのは仕方が無いと言えば仕方がないことです。でもそれがあまりにも過剰になってしまうと、折角の建物が中途半端になりかねないと思うんです。


中途半端な台所、中途半端な居間、中途半端な子供室。結果、中途半端な人生にだって繋がっちゃうかもしれません。(これもチョッとオーバーか)


つまり、あれこれと過剰な要素や要求を詰め込んでも、それが全て「良い家」に繋がるメリットになるかは疑問だと言う事です。それを上手に解決するには、自分にとってあるいは自分達家族にとって、何が大事で、何を優先させるべきか正しく理解する必要が有ると思います。そこを見極めるのに「潔さ」が必要だと思うわけです。


誤解の無いように付け加えますが、「潔く諦めろ」と思っている訳では有りません。
自分達にとって、何が大切で、何が大切で無いかを、正しく見極めて欲しいと思っているだけなのです。


今は沢山の情報が溢れ、沢山の問題や生き難さや、トラブルを抱えているのが現実だと思うのです。例えばシックハウスの材料が云々、外断熱工法は云々、風水による間取がどうしたと、様々な情報が供給過多気味で氾濫しています。書店に行けば、専門家さえ舌を巻くような情報が、一般誌にジャンジャン掲載されています。それらの全てを見て「おお~、私の家には全てを盛り込んで~」なんて言うふうに、軽いパニックに陥りながら右往左往する必要なんて、全く無いと思うんです。


情報とは正しく判断し処理してこそ情報であって、そうでない場合にはただの雑音でしかありません。でもチョッと油断すると雑音に踊らされ、自分達の家が思っていた方向と、全く違う物になってしまうのが今の時代なんです。それを正しく判断する為のキーワードの一つが「潔さ」であると言う事なのです。


子供達が大好きな風船は、しなやかな弾力があるから強いのです。
桜はある種の「潔さ」を持っているから、美しいのでしょう。


家を考える時に、希望を雑多に詰め込むのではなく「我が家のキーワード」を一つだけ決めてから考えてみては如何でしょう。きっと今までと違った、何かが見えてくるかもしれませんよ?
 

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