二百十日


防災の日の今日は、暦の上では二百十日にあたる。
台風被害の多い二百十日は、農家の方にとっては、もっとも嫌な時期だ。
丹精込めて育てた稲が、もう少しで収穫となるこの時期、台風に襲われれば一溜まりもない。
台風に負けない鉄の稲を育てたいと、誰かの言葉にあったが、今はそんな想いを抱く時期。

そんな台風の多いこの時期、地震をはじめとした自然災害への対策を忘れずに備えよう
という日が今日「防災の日」。

もっともどんなに備えていてもが、自然の驚異が本気で襲い来れば、その破壊力は人知を超える。
備えと言うのは、物質的な対策や補強、あるいは物品のストックだけのことを言うのではなく
いかなる時も油断をしないという、心構えのことなのかもしれない。


閑話休題
自然災害ではないが、日常の生活音が喧しいと、アパートの上階の住人を包丁で刺すという事件が
千葉県の柏市で起きたそうな。
この手の事件、最近は珍しいような気がするのだが、私が知らないだけか。

現場の建物を見ると、いかにも音の響きそうな木造二階建ての古いアパート。
なぜか懐かしく感じてしまうのは、まぁ若い時の記憶のせい。

事件の引き金となった生活音の限界と言うのは、実はとっても難しいと思っている。
法律用語で言うと「受忍限度」なんて言葉で表されるが、受忍限度は人それぞれ違うから。

私に耐えられる生活音でも、誰かには耐えられない。
その耐えられない人を捕まえて、「なんで耐えられないんだ!」と、責めても意味が無い。

もともと日本の家屋は、遠慮と気遣いで成り立っていた。
今でこそ核家族が主流だが、少し前までは二世代、三世代同居なんて当たり前で
薄い障子一枚隣で、新婚夫婦が寝ている―なんて家ばかりだった。
だから互いに気を使い、生活するしかなかった。
それが家の中で訓練され、外に出ても互いに気遣う生き方を旨としていた。

それが何時の頃からか「俺が、私が」と、自己主張することを覚え、
それを権利だと叫ぶようになる。
同時に核家族化が進み、家の中での気配りや配慮への関心が薄くなり
何かを察して配慮する、心配りへの関心が低くなってしまったのではないか。
そして「俺の安眠を妨げる奴は殺す」と、一足飛びに飛躍する人が現れる。


自然の脅威に備える心構えを持ち続けることと同じように
他者への思いやりと余裕を持ち続けられる、自分の心の「ゆとり」というか「余裕」
あるいは「遊びしろ」みたいな物を、いつでも持っていられるようにしたいと思う。
だぶん、そこが一番大事だと思うから。

いつでも最も大切なものというのは、見えないように出来ているのだろう。

雨の九月一日。
もう秋の気配です。

 

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